前院長雑感(南の風)

畏友栗山君の死から(5)(2019/04/17)

 (医局時代)
 私たちの学年は昭和47年に卒業後、一年の非入局ローテーションの後、それぞれの専門分野の医局に入局した。彼は学生時代からよく勉強し、おそらくクラスのトップで卒業したのではなかったかと思う。ポリクリでも彼の豊富な知識と学問に対する探究心が次々と難しい質問を連発し、担当した先生方を困らせていたようである。ある内科を回った時、「前回のグループで、浅黒い目の大きな学生には辟易したよ」と語った講師の先生もいたが、彼に責任はない。彼の場合は純粋に、真理への知的探究心のなせるところからである。
彼は生粋の学者タイプで、学問に対して実にエネルギッシュで大変な勉強家であり、脳血管なども微細な血管までそらんじていたし、病気について知らないことはなかった。そして自分の受け持った患者さんについてわからないことがあると、検体(血液や尿)を携えて日本全国、赤いセリカGTをぶっ飛ばすこともしばしばだった。時には数カ月や1,2年、そのまま滞在してしまうこともあったので、「机を預かっていてね」と言われて、私の家の離れには彼の机がいくつもあったこともあった(あのころは、冗談交じりに皮肉ったりしたが、なかなか常人にできることではない)。
当時の様子を西澤正豊先生(前新潟大学教授)は、「亡くなられて驚いた」に続いて、次のような思い出を寄せてくれている。
宮武正先生が自治医大助教授の時に、鹿児島から研究に見えました。ガラクトシアリドーシスの患者さんの尿を何リットルも集め、尿に排出されるオリゴ糖鎖の構造解析をしてJBCに立派な論文を発表されました。夜型でおられたので、朝型の私とは時間帯が合いませんでしたが、大変なハードワーカーでした。宮武さんは口癖で「寝ずにやれ、死ぬ気でやれ」と発破をかけるのですが、文字通り実践しておいででした。福井大学では新潟出身の米田誠君の面倒をみていただきました。こころからご冥福をお祈り申し上げます。(終)
医学関係のジャーナルもバラバラにして針金でとめるなど、彼流の分類方法できちんと仕分けして整理していたものである。
だからといって学問だけの男かというとそうでもない。愛すべきキャラクターも持ち合わせていた。当時流行った吉田拓郎や小椋桂の曲をギターやハーモニカも交えて演奏し、時には自ら喫茶店を貸しきって独演会を開いたりした。重たいコーラ箱を運んできて、義理で来てくれた人に一人一人配ったりしていた。もちろん、お金などとったりはしない。終わった後、「どうだった?」と聞かれたので、「よかったよ、君の演奏はちっとも邪魔にならない。みんな勝手に隣の人と談笑できて、それが何よりよかった」と誉めたつもりだったけど、嫌な顔をされたことを思い出している。
またある年の忘年会が指宿のホテルであったことがある。この頃は御用納めを昼で切り上げ、その夜に忘年会は行われていた。彼は鹿児島市内から指宿まで海沿いの道を走って参加したこともあり、当時井形先生の教授秘書だった大久保さんは「車で追い越すわたしたちに笑顔で手を振りながら」走る姿を今もよく憶えているという。大変なことなのに何事もなかったかのように振る舞えるのが彼の真骨頂だった。


南風病院画像診断センター政記念消化器病研究所病院広報誌「南風便り」