前院長雑感(南の風)

畏友栗山君の死から(3)(2019/04/15)

 今年も賀状をもらったが、添え書きはなく型通りのものだった。その後、大田記念病院から、彼が院長として活躍した8年間に、部下を指導して仕上げた論文集(退任記念誌:2018年10月刊行)が送られてきた。その論文たるやよくもこんなにできたものだと思うほどの数で驚嘆した。
彼自身の巻頭の「ごあいさつ」の最後に、「臨床の場での研究の一番自然な出発点は一人一人の患者です。患者を充分診察する中から、診断、病態、治療法などの問題点、発想などが生まれ、新たな視点が展開されるのです。
治療法のない難病といわれる疾患の患者を担当し、何とか助けたいと願う情熱が新しい治療法の発見へと導く力につながります。症例報告とは単に珍しい症例の提示ではなく、臨床研究の新たな発見につながる原点であり、患者から出発し、その上で動物実験などが計画され、さらに深く追求することが基礎的な研究につながり、世界的発見へと導かれる事も多いのです。これこそが臨床家が最も理想とする医学研究のスタイルではないでしょうか。
我々臨床家の発想は、治療する医師と患者の連携の中から生まれ、患者さんとのナラティブな物語は、病態解明、病因論にせまる重要な手がかりをもたらすものであり、大いに症例報告を行うべきと考えます」と書かれている。彼の目指した臨床研究の目的がコンパクトによくまとめられており、若手の医師の参考になるものである。
また大田記念病院名誉院長で栗山君が最も信頼していたと思われる後藤勝弥先生は「さすが栗山先生!」と感嘆しました、というタイトルで次のように述べておられる。栗山先生が福井大学の教授時代に、自分の後任として声をかけられたのも先生である。
栗山先生とのなりそめは昭和40年代、私が医員として働いていた九州厚生年金病院の神経内科に鹿児島大学から研修に来られた時です。・・・押し寄せる患者をさばくだけが精一杯といった状況で、臨床の現場から大事な問題を探り当て、リサーチを重ねて論文にまとめるという先生の特質は、既にこの時に発揮されました。
最後に、栗山先生、永い間ご苦労様でした。ひとまず体調を整えられることに専念され、趣味としておられる医学史の研究に精進してください。(終)
確かに初期研修の場所として、彼にはもっとも適した病院だったようで、当時部長の梅崎先生と後藤先生の話をよく聞いたものである。
日本神経学会事務局の池田義春さんからは「栗山先生が大田記念病院に在職されていた時期、臨床神経学への投稿数が上位を占めていました。大学以外では珍しいことですが、若い方の育成に熱心に取り組まれていたのだと思います」というメールをいただいた。
きっと夜は病院にそのまま居残って論文を書き、後輩を指導して過ごしていたのではないだろうか。
 栗山君とはいろいろな思い出がある。
医局時代、福井(2004年)や広島県の福山(2014年)を訪問した時には、観光地の案内など飛び切りの名所旧跡をフルコースで準備してくれていた。学問同様、こんなことにも手を抜くことをしなかった。借りを返すこともできずに逝ってしまった。また鑑真和尚が訪れたという坊津町秋目(2013年)を訊ねてみたいといわれた時には、私が運転して南さつま方面を訪れたことも今となっては懐かしい思い出となっている。
また2013年に南九州病院の定年の記念に「難病医療とのながい道」を刊行した時には、私のために「永遠なるものは人間の記憶」と題する素晴らしい小文を寄せてくれた。
司馬遼太郎の「草原の記」を話題にしながら、モンゴル帝国の二代目の国王オゴタイの言葉として「財宝が何であろう。金銭が何であるか。この世にあるものはすべて過ぎ行く」と言い、さらに続けて「永遠なるものとは何か。それは人間の記憶である」と述べたという。・・・
人の脳はいわば体の中の小宇宙である。福永君は彼との知遇を得た、周りの人たちの全ての宇宙にやさしく光を放つ“福永星”として、永遠に記憶されていくものと想像する。(終)
私には身に余る言葉であるが、私たちも彼の生き方を永遠に記憶するだろう。


南風病院画像診断センター政記念消化器病研究所病院広報誌「南風便り」